俺の人生にとって「漫画・劇画」は血と肉となる「糧」だった!

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 「漫画・マンガ・劇画」と共に覚醒した個人史・・古本屋あさり・・そしてマンガの持つ意義と未来構図

最近、電車などに乗っていると、車内でiPadなどを利用して、いわゆる「電子書籍」を読んでいる人をチラホラ見かける。ページをめくるのも「音」がしなくて、指をスライドさせているだけである。今の時代、小さな「本屋」さんがどんどん閉店したりしているが、人間の住まいの中に「本箱」「本棚」が無くなってしまう状況が増えていくような「味気ない社会」は絶対に来て欲しくない。

 私にとっての「本」との出会いは結構遅い・・・というか、小学校・中学校時代は図書室なんて「頭のイイ奴」が行く所だと思い込んでいた。授業で行く以外、図書室に足を踏み入れたことが無い。私は5人姉兄の末っ子だったが、オヤジさんと姉や次兄は特に本好きだったように思う。それとも「ツンドク派」だったのかなあ?本箱は3つくらい家にあったし、赤い箱に入った日本文学全集や平凡社の百科事典が並んでいたように記憶している。でも、私の記憶に鮮明に残っているのは「本」ではなく「少年サンデー」「少年マガジン」「冒険王」「少年画報」というような漫画雑誌の創刊であり、発売だった。

 「少年サンデー」と「少年マガジン」は1959年3月17日(1959年4月5日号)、私がわずか11歳小学校5年生の時に【創刊】されている。その漫画雑誌が創刊されるというのは「新聞」で知ったのか、広告パンフなのかよく覚えていないが、発売日まで本当にワクワクドキドキしていた「子供らしい」自分を思い出す。少年サンデーの表紙は「長嶋茂雄」、少年マガジンの表紙は濃い胸毛と太い眉毛で人気だった46代横綱の「朝潮太郎」だった。(後日知ったが、朝潮太郎の出身地は米軍の占領下にあった奄美諸島・徳之島だったので、貨物船で密航して親戚のいた神戸にたどり着いたという人生の再スタートのエピソードがある)・・・・「少年サンデー」は発刊の趣旨が「毎日が日曜日のように楽しくなれる雑誌」と銘打っていたようで、まさに、あの頃の小学生・中学生にっては、1ページめくる毎に目がきらきらと輝き、エキサイティングな時間が過ごせる至福の時間であったと思う。最初の1ページ目をめくるのに、どれだけの時間「表紙」を眺めていたことか!

 少年サンデーは「小学館」少年マガジンは「講談社」その後も1968年創刊の「集英社」の「少年ジャンプ」1969年創刊の「秋田書店」の「少年チャンピオン」とまさに団塊の世代の購買層相手に熾烈な「漫画雑誌戦争」が継続していたように思う。創刊号はサンデーが30円、マガジンが40円だった。昭和34年当時の物価がかけそば35円、豆腐15円、日本酒1升ビン505円、映画館入場料150円だったから、決して子供にとっては「安い」とは言えない値段である。はっきり記憶していないが、きっと「オカン(母親)」に執拗にねだったんじゃないかなあと想像している。そういう面では我が「オカンの芳子さん」は子供には寛容で、本当に「愛情いっぱい」に育てられたという記憶しか残っていない。かなり長い間、創刊号から大事に残していたと思うが、西区立売堀から東住吉区桑津町の父親の勤務する会社の社宅の離れに転居した際に「処分」されたのではないかと思っている。大阪の愛日小学校の高学年の時には、いわゆる「越境入学」で東住吉区から東区まで満員バスに1時間以上乗って「通学」していたのだから、ようがんばりはりましたなあ!!!

 今でも微かに記憶に残っているが、東区今橋に愛日小学校はあったので、いつも下校するとバス停前の会社や銀行の入り口の階段に座ってコレクションしていた「切手帳」を広げて熱心に見入っていた自分を思い出す。銀行員の若い女性社員さんが、そんな私に【今度、外国の切手持ってきてあげるね!】と声を掛けてくれて、何度か貰った事がある。あれはとても嬉しい記憶でしたね。父親も「建築金物」の「貿易業」のような仕事をしていたので、メキシコとかベネズエラとか当時、良く知らない国の外国切手を持って帰ってきてくれたので、めちゃくちゃ喜んだ思い出があります。

 ちょっと、いろいろと思い出すことが多く、脱線しかけていますが、とにかく私の漫画雑誌愛好は高校時代、大学時代、フリーター時代から社会人になっても、ますます「エスカレート」していくことになるんですね。それは余りにも面白すぎる「漫画」に出会ってしまったからです。漫画といえば、「手塚治虫」を忘れちゃいけません、・・・「どろろ」(1967年) 室町時代を舞台に百鬼丸と妖怪退治の旅を続ける何ともやんちゃな身寄りのない小僧の活躍する話、あんなに面白いストーリーが「陰惨すぎる」という理由で掲載中止になるなんて・・・・なにが「障害者差別を助長する?」手塚治虫のあの壮大なストーリーと意図するものが見えないなんて!「ブラックジャック」も大好きだったなあ。「火の鳥」は壮大すぎてよく理解できなかったというのが正直な感想。

 挙げたらキリが無いが・・横山光輝「伊賀の影丸」(1961年)、赤塚不二夫「おそ松くん」(1962年)
つげ義春「ねじ式」(1968年) ジョージ秋山「銭ゲバ」(1970年) 池上遼一「男組」(1974年)楳図かずお「まことちゃん」(1976年)、寺沢武一「コブラ」(1978年)・・・・よく夢中になって読んだなあ! 刺激的で、よく「妄想の世界」に遊んでいた時間がいっぱい!

 1960年代~1970年代になると、「右手にマガジン、左手に朝日ジャーナル」の学生運動盛んな時代の到来だった。私も京都のD大学に浪人をして入学したが、まさに「学生運動」の真っ最中で、登校してもロックアウトされて校舎に入れなかった記憶がある。しかし、あの頃ほど先輩や友人たちと「議論」した時代はなかったよなあ・・・・懐かしいなあ、あの若かりし頃の自分!血気盛んなとまではいかなかったが・・・

 昔の自分の思い出に浸っていると時間が経過していく。ここで「マンガ論」にシフトチェンジすると、私には絶対に人には譲れない「ビッグ5」と呼ばれる漫画が存在している。私の「人格形成」にどれだけ影響を与えたか・・計り知れない。「そんな大きな器の人間かいな?」と揶揄されそうであるが、自分の内面を形成した大きな「素材」になっていることは間違いがない。そのビッグ5を紹介しておきたいですね。

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  まずは、白土三平の「カムイ伝」。1964年から「月刊ガロ」に連載を開始されているが、私が知ったのは週間少年サンデーに不定期掲載されていた「カムイ外伝」とビッグコミックに掲載されてからである。あの階級社会の時代背景を舞台に様々な人間群像が描かれていて、あんなに圧倒された漫画は無かった。私が「差別」の問題に人生で気づかされた最初の出会いとも言える。差別構造が存在していた父親の郷里では「当たり前のこと」だったらしく、「朝鮮人差別」に関してもかなり激しく父親と「口論・議論」した記憶がある。その結果、逆に父親との心の繋がりができ、父親の個人史を兄弟の内で一番良く聞かされていたと思う。

  二つ目はさいとうたかおの「ゴルゴ13」1968年「ビッグコミック」の創刊から掲載開始されていたが、私が最初に読んだのは「45~51話」ぐらいの話だったと微かに記憶している。その時の「衝撃」「こんなにリアルに興奮させてくれるマンガ(劇画)があるんや!」となんとも驚いた。そして、すでに掲載されたものを「別冊ゴルゴ」にして発売し始めたのは1972年(昭和45年)だから、もう「過去に掲載されたバックナンバーのゴルゴ13」を読みたくて読みたくし・・・・・どれだけ大阪市内・大阪府下の「古本屋めぐり」をしたことか・・・そして西成区にあった古本屋で「第1話:ビッグセイフ作戦」が掲載されているビッグコミック創刊号を見つけた時は「私の人生でこんな嬉しい事はなかった」と言えるくらい感激したことを覚えている。今はマンガ評論家があちこちで「ゴルゴ13」の評価・批評をされているが、世界情勢や時事問題を巧みに取り込むことによってリアリティーを出していたという側面での評価より、「不可能を可能にする」その推理小説のプロットのような「暗殺のテクニック」に完全に魅了されてしまっていた。また、デューク東郷に「男らしさの新基準」というようなものさえ感じていた。

 三つ目は週刊少年ジャンプ(集英社)に1983年41号から1988年35号に連載された「北斗の拳」である。漫画家・原哲夫と漫画原作者・武論尊の最良のコンビが創り上げた傑作中の傑作である。まず劇画のタッチがとても好きで、何の抵抗も無く「設定されていた状況」に感情移入できたし、「一子相伝の暗殺拳」とか「「経絡秘孔」という言葉の響きにウットリし、「ひでぶ」「あべし」「たわば」などの悪漢がケンシロウにボコボコにされてあげる「断末魔の悲鳴」に苦笑したりしていた。流行語にもなった「お前はもう死んでいる」は未だにこの世に生き残っている。

 そして4つ目は週間少年ジャンプ(集英社)に1984年51号から1995年25号までの約10年半連載が続けられた鳥山明の「ドラゴンボール」である。面白さから言ったら、どんな世代にでも、男性にも女性にも受け入れられるポピュラーなオモシロさがあったように思う。私の評価のひとつは登場してくる「キャラクター」の個性がそれぞれにあって、あのユニークすぎる全員の名前を覚えたくなってしまう独自性と格闘技においては「上には上がいる」という認識を新たにさせてもらった「展開の奥行きの深さと独創性」と思っている。さらに「フリーザ」「人造人間セル」「魔人ブウ」などの登場に胸がドキドキしたし、「完全体」になるまでの「変身」の過程が素晴らしく、鳥山明の才能の凄さに脱帽していた。

最後の5つ目は、今も「ビッグスピリット」(小学館)に連載されている原作:雁屋哲、作画:花咲アキラによる「美味しんぼ」である。あれは単行本を77巻まで購入し、私が勤務していた病院にOT施設ができる際に【退職の際に返却してもらう約束】で提供したが、そのままになっている。1983年から連載されていたので、30代の後半から夢中に読み出していた。解説は不要なくらい「取材」も徹底してされているし、グルメリポートのような軽さは一切無く、「薀蓄」を語りたくなるくらいの中身がある漫画だった。

 この5作品を凌ぐ「マンガ」にはまだ出会っていない。でも、「マンガ」「劇画」をバカにしている人達が一部にいるようだが、マンガのストーリーは「小説」を超えているし、劇画のリアリティーは「映画」に勝るとも劣らないし,漫画の面白さは「吉本」に勝っていると思っている。そして「小説」「社会評論」などと同様に、自分という人間の人格形成、具体的に言うと「正義感」「善悪の判断力」「意思決定の強さ」「思想性」「差別と戦う気持ち」「勧善懲悪」など様々な価値基準を自分の内面に形造ってくれて、とてもありがたい存在で、今も感謝の気持ちで一杯です。

子供たちよ!大いに「漫画」を読んでくれたまえ。でも「選択」することが重要なんだよ!実につまらない時間の無駄と呼べる漫画も多いから、大いに注意してください!!!

 長くなってしまった序に、どうしても追記しておきたい漫画家がいる。下咽頭腫瘍という病で45歳という若さで逝去された「上村一夫」という人である。武蔵野美大を卒業されて広告関係の仕事をされていたが、そばに、あの名曲を生み出した作詞家、「北の宿から」都はるみ「熱き心に」小林旭、「また逢う日まで」尾崎紀世彦、それに「UFO」「サウスポー」などピンク・レディーの曲のほとんどを作詞していた【阿久悠】がいて、漫画の原作を描くから「絵」を担当してほしいと依頼されて、それがきっかけで漫画家として大成したが、余りにも若すぎて寂しい逝去の仕方だった。その彼が描いた「女性」は妖艶で、情に厚く、儚くて、でも「ひたむきに生きることのできる」強い女が描かれていた。優しい毛筆のようなタッチ、流麗な線と色彩のコントラストが著しく際立っていた。「昭和の絵師」と呼ばれるほどの才能があったのに・・・「上村一夫」しかり「阿久悠」しかり、素晴らしい存在が「未来の構図」を描くことなくこの世から消えてしまっている。・・・・・・

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by taira710 | 2013-11-01 20:25 | 人生こそ旅の連続!! | Comments(0)
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人生は旅、仕事も遊びも旅さえも旅気分で楽しもう!!


by PEACENIK平ちゃん
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