人間に悲劇が訪れるのは「自然の摂理」・・神は何をしてるんだろう?

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 「神も仏もあるものか!」なんて叫ばないけれど、人間世界は「悲劇」が多い。「信仰」することで救われる人ってどんな「人」なんだろう?

  

人間のDNAには様々の【可能性】と【悪意】が潜んでいるように思う。「長寿遺伝子」という存在もあれば、様々な疾患を年齢に関係なく引き起こしてしまう「要因」がDNAの中に組み込まれてしまっている。それがいつ発現するかは、その人の「生き方」と大きくリンクしているように思うが、DNAに組み込まれている「発病因子」はかなり大きな「素因」となっていることが科学的に立証されている。私の父親は73歳で「脳室出血」を起こし2週間後に息を引き取った。母親は「胃がんの手術」を受けて経過は良好だったが、後年、「認知障害」が発現して、遠く宮城県の仙台というところの施設で亡くなった。姉は「脳腫瘍」でこれも脳幹部に発生し、手術後も「平衡感覚の喪失」など様々な障害が出て、結局「失意」の内に、実母に看取られて亡くなった。私はその時、看護師の資格があったので父親も姉も「死後の処置」を惜別と感謝の気持ちを込めて施させていただいた。母親からとても感謝された記憶がある。

 

私は「矛盾」があることは大嫌いというか「容易に受け付けない」。憲法が保障しているように「宗教・信教の自由」はあって良い。しかし、「信徒」と呼ばれる人たちの行っている「布教活動・宣教活動・折伏」とかいう行動にとても「疑問」を感じる事が多々ある。私は、日本古来の「神社仏閣」を歴史的視点から訪れることが大好きである。勿論、賽銭をほりこんで、手を合わせることもするし、鈴も鳴らすし、「おみくじ」も引く。五島列島を訪問したときの「キリスト教会」の雰囲気は決して嫌いではなかった。直径が1メートル以上ある鳥居に出くわすと「凄いなあ!」と驚きながら一礼したりもする。・・・・・ところが、それは決して「宗教心」とは思っていない。また「般若心経」程度は暗唱していて、嵐山までお墓参りに行った時は読経しているが「意味」まで調べたことはない。これは「信仰」と言えるはずがない。

 

しかし、何が嫌いかと言うと、宗教・宗派に勧誘する際の「信徒」の口から出る言葉である。単純に言い換えれば【貴方の今ある不幸の原因は、貴方の先祖の不信仰ゆえの因果応報である】というような「人の不幸」に付け入るような言動が多すぎるからである。そんな下衆な「人間」を養成するような「信仰・宗派・宗教」に興味が持てるはずもない。「信仰が足りないから」・・・そして結果が好転しないと「貴方は自分の幸福ばかりを考えていませんか、もっと多くの人達を幸せにするために折伏・布教活動に励みなさい!」・・・・と。

この「組み立て」「教化方法」が何とも嫌いである。

 

 仏教の教化方法には2種類あると言われています。一つは「折伏」とは「相手の悪の部分を指摘して屈服させて正しい信仰に導きいれる方法」とされ、もう一つの「摂受(しょうじゅ)は「相手の善を受け入れて、取り込んで、徐々に浅いところから深いところへ導いていく方法」とある。この「相手の悪を指摘して、屈服させて」というところが「貴方がこのような不幸な病気になられたのは、正しい信仰を忘れておられるからです」と弱っている人に言い【屈服】させるなんて最低の方法だと思いませんか? この手法を頻繁に取り入れているのが「SG」という宗教団体です・・・と私の家内は経験値から120%嫌っているし否定しています。

 

私は、実の母親の宗教遍歴が極端で、そもそも立派な「仏壇」によくお供えをしていましたし、朝・夕の勤行(ごんぎょう:読経・礼拝)を欠かさずに実行していましたから、熱心な信者だったと思います。本当に人を疑うことを知らないような、所謂「世間知らず」の純朴な母親だったと思います。でも、ある日、65歳を過ぎて「仏壇への神頼み」に何の効力もないことを悟ったのか、理解したのか、入れ知恵をされたのか、折伏されたのか・・・・正しくは知らないですが、私が知る限りにおいて40年以上守り続けられてきた「由緒ある仏壇」を母親が処分してしまったんです。

 

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 これは驚きでしたね。でも、家族は全員冷静でした。母親が「転向」して宗派を変えたことで,自分の身に火の粉が降りかかることは少なかったですし、転向以降、母親が「活動的で生き生きしてきた」と子供たちが感じていたので「いいか!」と多分思っていたんでしょうね。私は深く考えたことはなかったですが、創価学会の本部まで行って、その巨大な宗教施設に度肝を抜かれたことがありましたし、大きな会場で実施された信徒によるマスゲームの素晴らしさには感動させてもらいました。まさに「統一教会」やその他の宗教団体が実施する際の「お祭ごと」のできばえはなかなかのものです。北朝鮮のマスゲームも同様で、人間一つの目標に向かって協調し成し遂げる力は、やはりチュチェ思想のような「イズム」や「宗教」は大きなバックボーンになりうることを感じさせてくれました。でも、今、とても注目されている「集団行動」の競技大会の背景に「宗派」や「イズム」が存在するとは思えないですが、指導者に対する「畏敬の念」はとても強いと思います。

  

 Yahooの知恵袋には様々な「質問」がされ、いろんな人達が誠心誠意アンサーしているというコーナーがあります。案の定「神仏の存在」に関する質問と【回答】も出されています。宗教心・信仰のある人は「神様・仏様はおられるんですか?」なんて質問はしないので、大抵は【素朴な疑問】か【決定的な否定派】【無神論者】からの質問です。質問者は「こんな悲劇が何で続くのですか?神様が存在したら、そのような悲劇を起きないようにしてくれたら良いと思います」「神や仏は人間の創造物ではないのですか?」中には「神の存在は信じる。しかし、宗教は信じない」なんて表現もあります。

 

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一番典型的なのが、キリスト教的回答です。常にひとつのパターンを持っています。彼らはこのように答えます「絶望のときも神様はそばにいてくださるんです」「神様のなさること。その神様のお考えを悟ることは人間にはできません」「神が人の創造物ではなく、人は神の存在をその根源的なところから認め、求めてきたと立証されているのです」「実際には人間は神の創られた実験動物に過ぎないのです」・・・・・など。ところが、無神論者は踏ん張ります。「お釈迦様は万物が無であることを悟りました。物理学の量子論や素粒子論は科学的にそれを証明しつつあります」なんて論理を形作ったり「すべて自然現象のなせる業、悲劇的な事故も生命の誕生もすべて自然のなせる業」「困ったときの神頼み、ご都合主義といわれても、気休め程度で良いんじゃないですか!」なんて落としどころを探してきたりします。

 

余り「結論」らしきものは出てきませんが、別に「宗教論争」を引き起こしたいわけじゃありません。ただ、何一つ勉強することなく、ただ「盲信」する宗教はおやめになった方が良いでしょうし、何事にも「懐疑」は必要です。「宗教」も万物、特に生命ある生き物の中で「人間」だけが信じているものですから、やはり「進歩・発展」することが必要なものじゃないでしょうか。信仰に「アグラ」をかいていてはいけないでしょう。大局的に「宗教」を眺め、もうひとつ「自己点検」されながら、「何故、私は、今、宗教にすがっているのでしょうか?」「宗教なしに日常生活は送れないものでしょうか?」「私にとって宗教はどんな意味があるのでしょうか」なんて自問自答するぐらいの余裕はあっていいのではないでしょうか。

 

私は、今まで【命】を脈々と繋げて来た【祖先・先祖】はとても敬うべき存在としてあります。それと、私の周囲にある超人的な存在は【大自然・太陽】です。この大きな二つに敬意を払い続けることで、十分に精神は安定しますし、前向きな生き方を選択することができます。でも、もうひとつ「来世」というものは、実は私は感覚として「感じているんです」・・・・・・これだけの精巧な生き物「人間」が火葬にされて【灰と骨】になる。この事実は目の前で何度も見てきました。でも、人間が「夢見続けてきた」ことがすべて現世で実現しているのと同じように、人間の潜在的に希求し続けてきたことは「次元を超えて」実現しているんじゃないかと感じています。人によると、今ある現世が実は仮の姿で、本当の自分自身とは死後の世界に存在する。何か、それこそ「夢」が広がるように思いますね。死後さえも夢を持ち続けて、前向きな生き方を貫きたいものです。
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PS: 最新の世界の人口は2012年に70億人を突破したが、その内の
  
12~14%が「無神論者」という統計があります。

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by taira710 | 2013-12-02 21:26 | 人生をいかに生きるか! | Comments(0)
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